私は自分なりに「プロフェッショナル」にこだわっています。
今現在私の考える「プロフェッショナル」とは、
「一切自分の責任のもと、可能な限りのパフォーマンスを提供すること」、
です。
これは、普段の生活でも実践しています。
例えば、「自分の責任」について言えば、
誰それから「〜を聞いた」、権威のある人が言うには「〜は〜のように起こる」、「〜をしたいなら〜という本がいい」など、アドバイスをもらっても頭から信じないようにしています。
信じるなら、客観的にそれが正しいとわかるまで自分で調べて結論を出すようにします。
それをしないと、自分の期待と異なるときに勧めた人のせいにしてしまうことが起こると考えるからです。
例えば、「この本は〜さんが書いているから間違っていないと思っていた。騙された!」、「ええっ! そうなの?〜さんが言うからそうだと思っていた」というようなことを聞くことがありますが、私は、こうした発言は他人に依存していて、自分の責任として考えていないことから出てくるものだ解釈し、自分を戒めております。
それでは、何が「正しい」かですが、「〜が正しい」という判断は、究極的にはあり得ないと思います。すべて何かしらの前提(つまり仮説)に立っているからです。しかし、信頼するに足るものかどうかはさまざま角度から多くの資料を見て考えれば、だいたい判断できると思います。
翻訳の例では、「〜の対訳は〜だ」ということがありますが、それを頭から信じないということです。指定される場合は別ですが、自分で調べて、原文に一番近い訳は何かということを考えます。また、原文を書いた執筆者の考えを推測することが大切だと思います。執筆者が何を思ってその単語を書いたのか、その文を書いたのか、それを考えてそれに一番近い訳語を当てるようにします。そうしないと執筆者が「私の言いたいことは、これではない」と落胆すると思うのです。「正しい訳語」とは、執筆者の考えに一番近い訳語ではないかと思います。
余談ですが、執筆者は、普通何とはなしにその文を書いたわけではないと思っています。その文を書くまでの背景としてさまざまな経験や関係者との調整、上司や責任者の承認など、普通は考え抜いて苦労して作った一文だと思います。それを翻訳がダメにしてしまうのは本当に悲しいことです。私は、翻訳者はあくまで黒子であり、編集者になるようなことは慎まなければならないとの思いで翻訳をするようにしています。
「可能な限りのパフォーマンスを提供」とは、徹底して調べることも当てはまりますが、
さらには、普段から自分のスキルを上げるようにすることも含まれると思いますし、また「提供」した後のことも考えたサービスを施すこともあると思います。
とにかく、あらゆる面で全力を尽くすことだと思っております。
しかしながら、全力を尽くしても何かしら間違えると思います。でもそこで間違いに気づけば、次に繋がります。全力を尽くさず間違えたなら、本当の自分の課題を見つける機会を逃してしまいます。
その前に全力を尽くさないことは、お客様にとても失礼ではないかと思います。
また、プロなら、「自分は絶対間違っていない」、という認識はないと思います。
自分の描く姿にいつもほど遠い自分がいて、それに向かって常に邁進しているのだと思います。
プロは常に自分の課題がわかっていると思いますし、妥協せず追求していくと思います。
最後に、パフォーマンスの一つである成果物は、大切な「商品」であるという認識をきちんと持つ必要があると思います。
翻訳で言えば、翻訳物に直接訳者コメントを入れるのを見ることがありますが、私は反対です。
翻訳物は「商品」ですから、傷があってはいけませんし、変なおまけもお客様はいらないだろうと思っております。
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